「富士みち」とは甲州街道の大月から富士山に向かう街道のことで、山梨県の通称で「富士みち」と称されています。(※現在の国道139号線のこと)
この「富士みち」は、古くから富士信仰の富士登山の行者で賑わっていたといいます。清泉寺はこの「富士みち」沿いにあるお寺で隣接して生出神社があります。清泉寺の山号である生出山は寺院の裏山のことで、生出神社と清泉寺は山岳信仰と神仏習合の歴史ある寺院だったことがうかがえます。

「甲斐国志」によると、清泉寺の縁起は永正年間(西暦1504年頃)弁翁西堂禅師が臨済宗に転じたため、門山恵広和尚(桂林寺)の伝法により円巖全通和尚が開山したとされています。円巖全通和尚、梅捜和尚禅師、清岩和尚禅師の時代、宝永三年(西暦1706年)まで鎌倉建長寺派であったとされています。その後、正徳四年(西暦1714年)に龍泉派となり、今日までその法燈は続いています。

寺院の前に流れている清流菅野川には毎年6月下旬から7月中旬までホタルが飛び交う幻想的な自然が残されています。また、菅野川にかかる指月橋では歴代の和尚様が橋の上で月を見ながら修業を行ったと伝えられています。

「富士みち」から当寺院入口を入り指月橋の手前には、延命地蔵尊が祀られており、延命の利生はもとより、古くから耳が良くなると言い伝えられており、毎年4月に行われる地蔵尊祭りでは、遠方からの参詣人も多く見受けられる。

清泉寺 寺院規則(抜粋)
臨済宗 生出山清泉寺 (妙心寺派 桂林寺末)

本尊由緒 薬師如来(木造坐体、座長十三糎、行基菩薩作)
合祀 十一面観音 延命地蔵 十六大凹

開山履歴
◇聖武天皇の御宇行基此の地を零地と称して手づから薬師如来像を彫刻安置す依って行基を開基とす世々天台宗たり後数百年の星霜を経て永正年間辨翁西堂臨済に転し建長寺院となる爾来廃絶に帰するに当たり宝永年間円巌中興し妙心派となる
◇然れども宝歴天明両度の火災に遭ひ諸記録を焼亡せしを以て詳細を委解せす
◇開基行基菩薩の創建にして世々天台宗たり聖武天皇の御宇
◇今に至る千二百に十年余の後永正年間辨翁西堂和尚臨済宗に転じ建長寺派となる依って開山とす今に至る四百四十余後宝永年間円巌和尚中興し妙心寺派となる今に至る二百四十年余

歴代住職  開山円巌全通-ニ世東隣元鯉-三世岷禅梵是-四世月泉曹指-五世鶴州士鉄-六世神州慈仙-七世圭良融-八世宝州良剛-九世譲海(仮住鷲公雲山)-十世暁峯良道-十一世

 

 

聖觀音立像 鎌倉期
(台座、後背は江戸期)


延命地蔵

白隠禅師と生出山 清泉寺
清泉寺の山号額は白隠禅師の書である。花園大学歴史博物館発行(2017年)の「白隠禅師二百五十年遠諱記念 白隠」の表紙になっている書が清泉寺の山号額である。

白隠禅師とは
白隠 慧鶴(はくいん えかく)は、臨済宗中興の祖と称される江戸中期の禅僧である。当時衰退していた臨済宗を復興させ、「駿河には過ぎたるものが二つあり、富士のお山に原の白隠」とまで謳われた。 現在も、臨済宗十四派において白隠禅師が中興とされているため、彼の著した「坐禅和讃」を坐禅の折に読誦されている。また「達磨図」「観音菩薩」などの書画も有名で、禅画の代表作と言われ、見る人の心をとらえてやまない作品である。

清泉寺の概要
正式名 生出山 清泉寺
宗派 臨済宗 妙心寺派
山号 生出山
本尊 薬師如来(木造坐体、座長十三糎、行基菩薩作)
創建年 天文二年(西暦1533年)
開基 円巖全通和尚
所在地 〒402-0005  山梨県都留市四日市場1129
電話 0554-43-3920
札所 郡内三十三番観音霊場三十二番札所